宮城県南三陸町

2011年6月23日、「フードバンク関西」を通じて「ハインツ日本〔株〕」より提供された100%のオレンジジュースを4トン、南三陸町の被災者の皆様にお届けしました。

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愛の架け橋プロジェクトは、2011年3月11日の東日本大震災によって壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町でボランティアに参加させていただきました。私たちの事務局は兵庫県で東北地方の被災地までは距離があるものの、何かお手伝いは出来ないものかと考えていました。

震災後2ヶ月余り経った5月18日、国道398号線を走り、南三陸町に近づくと、窓の両側に瓦礫の山が見え、津波のもたらした悲惨な状態を目の当たりにしました。

私たちは、他のボランティア団体と協力して、お米などの支援物資を搬送しました。

南三陸町で震災後すぐに被災者の支援に乗り出した三浦さん〔写真左から2人目〕率いるボランティア支援チームに物資を届け、そこでボランティアのお手伝いをさせていただきました。

三浦さんは震災前、魚屋を経営しておられましたが、津波で店も船もすべて失いました。しかし、それにもかかわらず、懸命に他の被災者を助けるために、被害を免れた倉庫を使って被災者支援物資を集め、必要な人に日々配っておられます。息子と一緒に支援物資の仕分けや配給を助けさせていただきました。

 

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宮城県南三陸町 地理

宮城県の北東部、本吉郡の南部に位置し、志津川湾、伊里前湾に面する町。湾内には椿島(つばきしま)、竹島、船形島、野島などの島があり、リアス式海岸特有の優れた景観を持つ。沿岸部一帯は南三陸金華山国定公園の指定を受けている。

西・北・南西は北上山地の支脈に連なっており、町土の70%以上は森林である。

リアス式海岸の地形的な特性から津波の影響を受けやすく、近世以前においては平安前期の貞観地震(869年)にともなう大津波など、近代以降では、1896年(明治29年)の明治三陸大津波、1933年(昭和8年)の昭和三陸大津波、1960年(昭和35年)のチリ地震津波によって大きな被害を受けている。そのため、沿岸部には、防波堤や防潮堤、水門などが設置されている。しかし2011年(平成23年)、東北地方太平洋沖地震によって被災し(東日本大震災)、特に大津波による被害は甚大となった。〔ウキペディアより〕

東北地方太平洋沖地震

 
  • 2011年(平成23年)3月11日 :マグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が発生し、南三陸町は震度6弱(観測地点:歌津地区、志津川地区)を記録した。さらにこの地震が引き起こした大津波は町内の3つの川を逆流し、1960年のチリ地震による津波の到達地点を超えて内陸深く進入した。庁舎もこれに巻き込まれた。  
  • 町域にあるJR東日本の駅(気仙沼線の陸前戸倉駅・志津川駅・歌津駅・陸前港駅)は、周辺地域の駅同様、駅舎などが流失し、線路も大きな被害を受けた。
  • この地殻変動により、志津川地区の地盤は大きくずれた。
  • 町庁舎と仙台法務局(気仙沼支局)は共に被災し、保管していた電子化済みの戸籍データが完全消滅したとの懸念が大いにあったが、同法務支局の上層階で約1年前の戸籍データ副本が発見され、最悪の事態は免れた(3月22日発表)。
  • 3月23日 :この時点で、安否不明者1,000人以上、避難住民約1万人
  • 4月18日 :町の中核病院であり津波により甚大な被害を受けた公立志津川病院が、仮設診療所で全9診療科を再開。
  • 4月29日 :この時点で、死者500人、避難住民7,090人(町人口の半数近く)。行方不明者は当初1万人とされていたが、後に修正された。〔ウキペディアより〕

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